バス釣りに「真摯に取り組む」という意味
バス釣りに情熱をもって取り組むことはいいことですが、そのせいで自分を見失い、節操がなくなるのは良くありません
こんにちは!店長の小山です!
本日は海外サイトより、”MICHAEL NEAL: “Fishing Clean” and What It Means”という記事を引用してご紹介いたします。
皆さんはきっと、釣りがお好きな方だと思います。
この厳しい不況時代、少ないおこづかいで釣りを続けていくというのは、正直、よほどの情熱がないと厳しいと思うからです。
もし経済的に無理をしていなかったとしても、もしかしたら家族やパートナーの反対を押し切っていたり、神経痛や老眼など、身体的な故障や老化に抵抗しながら釣りをされている方も多いかもしれません。
それでも自分が突き動かされているということは、情熱や執念など、心に強いものがあるからなのでしょう。
もちろん、何不自由なく釣りを続けている方も情熱や向上心をもって、夢中で人生を過ごしていることと思います。
釣りをする相手、魚にとってみれば私たちの年齢や身分や年収などに興味はなく、全員が平等というシステム。これが、私たちが釣りに夢中になれる要素のひとつなのではないでしょうか。
しかし、夢中になってしまうあまりに、自分を見失ってしまったりすることもあります。
例えば、恥ずかしながら私の例を挙げますが、遠征に行ったときに、強風で今日はボートが出せないとレンタルボート屋さんに言われたとき、これまでの交通費や宿泊費がもったいないばっかりに「これくらい大丈夫ですよ!」と食い下がってしまったことがあります。(結局出船はしていませんが)
また、仲間と釣りに行って、自分たちは楽しいことをしているアピールをしたかったのか、ギャアギャアとわめき散らしながら釣りをてしまったこともあります。
大変お恥ずかしい話で申し訳ないのですが、好きという感情も、ひとつ間違えてしまうと、こんな節操のないこともしでかしてしまうものです。少なくとも私はそうでした。
なぜそんな私が今のように(少しはまともに)変わったかといいますと、それはお手本となる人がいたからなんでです。本当に良かったと思っています。
この記事は、アメリカメジャーリーグフィッシング公式HPのアングラーコラムの記事で、メジャーリーガーのマイケル・ニール氏が、釣りに対する向き合い方について語ってくれています。
少し耳の痛い話に聞こえる方もいらっしゃるかもしれませんが、よろしければ読んでみてください。
釣りに真摯に向き合うという意味
「真摯に釣ること」と「いい釣りをする」という言葉は、ここ数年のプロアングラーの合言葉のようになっています。これらの言葉が意味するものはだいたい、良い試合が出来たか、バラしが少なかったかを指しています。
試合後のインタビューで、上手くいったプロはしばしば「良い釣りができた」とか「真摯に取り組むこと」の重要性について話しますが、それは下位のアングラーが「真摯に取り組んでいなかった」わけでも「良い釣りをしなかった」ということでもありません。
個人的に、私は「良い釣り」の本当の意味については少し違った見方をしています。
バイトがあったバスが釣れるかバラすかについての私の考えはこうです。魚をバラすこともゲームの一部です。釣りをしている以上、問題は起こる、それだけです。バスをバラさないことを毎回完璧にできるとは限りません。地球上のプロアングラーの中で、ルアーに掛かった魚をすべて釣り上げることができる人はいません。釣りそのものが物理学的に、逃げられることもあることが前提のようなものだからです。
ということは、私にとって「真摯に取り組む」または「良い釣り」とは、魚をバラした後の釣り人の振る舞いだと思っています。魚がバレてからすぐは、自分の感情は動揺します。それは自然な反応です。あるプロはタックルを投げます。ブチ切れる人もいます。汚い言葉を発する人もいます。そこでルアーをすぐにキャストし直して、何事もなかったように釣りを再開できる人は多くありません。
私にとってそれは、まさに「真摯に釣りをする」ことと「良い釣り」が伴うということです。
私は何年も前にケビン・バンダムからその教訓を学びました。テレビで試合中の彼を見たときのことを覚えています。最終日まで1位か2位だった彼はその日、優勝につながる魚をバラしてしまいました(推定5ポンド)。バスが外れた彼のクランクベイトはロッドの先でブラブラと揺れていましたが、彼の心は決して揺れていませんでした。彼はすぐさまそこに次のキャストを始め、「よし、ポジティブに考えれば、バスは今クランクベイトに食ってくるということだね。」と言うのです。
その瞬間、私は2つのことを理解しました。1)バスをバラすのは人生にはつきものであり、ケビンバンダムにすら起こる。 2)バスをバラしたときにどう反応するかは自分次第。ということです。
その不幸な状況に精神的にやられてしまい、釣れた事実すら否定してしまうことになるのか、はたまた、バイトがあったルアーですぐに次のキャストをし、別のバスをキャッチする機会を作り、良い釣りをし続けるかのどちらかです。
すみません、この記事はかなり素敵だなと思ったのですが、和訳するのが難しくて…だいたいこんな感じで合ってるかな?という訳し方になってしまっています(いつもですが)。
誰しも人間ですからね、個性というものがありますから、感情の出方やパフォーマンス(演技)の出方に違いがあるとは思います。
先に出した恥ずかしい私の例とこの記事の例えでは意味が違いすぎますね。
しかし、誰かから学ぶという点においては共通することがあったのではないかと思います。
現在のトッププロのマイケルニールでさえも、同じ土俵に立つケビンバンダムから釣りに対する姿勢を学んだんですね。
私は若いころ、よく一緒に釣りに行く弟の影響もあり、村上晴彦という釣り人(あえてプロとは呼ばず釣り人と呼ばせていただきます)の事が好きになりました。
彼からは、釣ることや釣果だけではなく、道具や魚やその他の生き物など、釣りに関するすべてのものに愛情を注ぐ感じ、トータルで楽しむ感じを学びました。
彼のようになりたくて、釣りやマナーのことに対して「村上さんならこうするかもしれない、村上さんならこんなことはしないだろう」という(勝手な)思いで行動していました。
今、時代は「個性の時代」と言われていますが、私たち釣り人の間では、将来的に釣りができなくなるかもしれないという岐路に立たされている時代でもあると思います。
釣り人としての振る舞い(個性)やマナーについて、周りの目が厳しい時代です。
先ほども私の例を出しましたが、今の私が完璧で聖者のような釣り人だと言いたいのではなくて、良いプロの釣り人をお手本とする一方で、自分の悪い部分もいい先生であることに注意していけたらいいなと思っています。
まあ、今、こうしてここまで読んでくださっている皆さんの事ですから、きっといい釣り人の方をお手本にして釣りをされていることだと思うんですけどね。
ずっと釣りして行きたいですもんね。
それではまた。
毎度ありがとうございます!